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ごあいさつ

ごあいさつ

ロング株式会社 代表取締役 岡﨑 直美 平成5年2月2日 双子の男の子誕生
それが、彼らとの出会いでした。

出産の日を迎えるまで、まだ会えぬ息子たちの泣き声や、抱いた感触と重さを想像し、
出産後は、成長した彼らの姿を想像しながら、私のライフプランを立てていました。

しかし、想像の世界と現実の世界は、必ずしも同じではない、そう思い知る人生が待っているのを感じたのは、初めて彼らと会ってからわずか数年のことでした。

ロング株式会社 
代表取締役 岡﨑 直美

これまでの出来事

平成6年
次男)痙攣発作
次男)まだ1歳になってない時に熱を出し、白目になって痙攣。
平成7年
長男)睡眠時に痙攣発作
長男・次男ともに《てんかん》と診断され、通院が始まる。
長男)最初は泣くだけだったが、段々と発作が酷くなり、
決まって入眠1時間~1時間30分後に、突然暴れだすようになった。
「怖い」「痛い」「嫌だ」を叫んで、伏せたり立ったり、地団駄踏んだり走ったりを繰り返すため、私が抱えるのが間に合わなかった時に、ベッドの柵や本棚、ドアなどに顔面をぶつけ、数針縫うケガをさせてしまったことがある。
同年
離婚  母と子の3人での生活がスタートする。
母24歳 息子たち1歳

~保育園にて~
長男)対人恐怖症があり、母子分離が困難。この頃、てんかん発作は毎日出るようになった。
次男)保育園で1人違う行動が目立つ。知らない人でもついていく。泣くことがない。
人見知りがないせいか、誘拐事件に巻き込まれ、警察沙汰になる。
この頃の次男は常に笑顔だったが、誘拐されても笑顔の次男に、少し不安と寂しさを感じた。
平成11年
小学校入学
長男)健康診断で右耳の聴覚異常を指摘される。
次男)先生の指示が聞けない。授業開始後すぐに教室から出てしまう。運動会はカンシャクを起こし参加できない。参観日でも机の上に立って手を鳥のように羽ばたき、飛ぼうとする、など不可解な行動が目立つ。
会話はオウム返しが多い。
学校から色々なもの物を持ち帰る。各クラスで飼っている昆虫や、お友達の作品、文房具など。
彼なりの理由があるが、一般的ではない。
私は、彼の行動の意味が分からず、毎日叱るばかりだった。
平成14年2月
小学校3年生の冬  他県より広島へ転居
学校は3学期の途中で転校させるのが可哀想で、毎日車で広島から通う。
朝5時に家を出発し、8時半ごろ学校へ到着。夕方、また広島に向けて帰る生活が1か月少し続いた。授業の間は私もその地で仕事をしていた為、毎日運転に仕事に家事には体力的には大変ではあったが、気持ちはとても軽かった。生活の場を変えることで、次男も落ち着いてくれるのでは?という期待もあった。
4月
長男・次男、広島市の小学校へ転入
双子なのが幸いし、新しい学校に馴染むまで時間は掛からなかった。
いつも味方が一緒という安心感が、息子たちにも私にもあったのかもしれない。
長男)国語の教科書が読めず、文字を書くことに抵抗し始め、国語のテストを帰りに道に捨てて帰るようになる。
少し気弱な性格もあったため、スポーツをさせることにし、極真空手に通わせることにした。
この時はまだ、「やる気がない」「怠けている」と思っていた。
空手を習うことで、自信も持ってくれれば、と願った。
次男)こだわりが強く、音・光・温度・味覚に対し過敏になる。相手の気持ちがまるで理解できない。
奇怪な行動が日に日に酷くなり、「私の育て方が悪いのだろうか?」「愛情が足りてないのだろうか?」「それとも、性格的なものだろうか?」と毎日悩やんでいた。
てんかんで通院していた市民病院小児科で脳波を撮った際、中枢神経の脳波に異常を指摘され、広島市子ども療育センターへ紹介される数日に分けてテストが行われた。

それから数週間後
広汎性発達障害《ADHD、自閉症スペクトラム》 と診断
ドクターより、「広汎性発達障害です」と告知を受けた時、
広汎性発達障害…なんだそれ?
そして…「ちゃんと理由があったんだ。性格的なものでも育て方のせいでもなかったんだ。」と、ホッとしたのが今でも忘れられない。
育て方のせいではない、という責任転嫁からくる気持ちかもしれないが。
この日より、次男の生活スタイルを変えていった。
次男が9歳、母30歳の時だった。
≪事件簿≫
※万引きでお店側より連日注意を受けるようになる。
※学校から逃走登校拒否になる。
※五感が更に過敏になり、音に対して難しくなる苦手な音がある場所では、耳を塞いでうずくまり、体を前後に揺らしながら「あー」と叫ぶようになる。
※会話は、オウム返しか、標準語のみ(方言が全くない)
※高い場所を好み、高所のベランダの柵や非常階段の柵の上に上がって寝ることが増える。
※急に車に向かって飛び出す独特な動きから、交通事故に遭い、救急車で救急搬送される。
診断されるのを待っていたかのように、様々な事件を起こすようになった。
その都度、絵を使用したりして療育していくが、すぐにその成果が出る事もあれば、全く通じない事もあり、苦戦苦悩する毎日だった。
今ほど情報も多くなく、収集手段も限られていたため、好奇な目で見られることが大半だった。
そのうち私は周りに対して「迷惑かけて、ごめんなさい」が口癖になっていった。
平成15年
長男)文字への抵抗から、自傷が始まる。
学校の担任も気にかけてくれ、次男の担当医に相談。
療育センターにてテスト。
広汎性発達障害《ADHD、LD、非言語性LD》 と診断
「いつか読めるようになるだろう」と思ってきたが、次男の障害と向き合うようになって、何となくLD(学習障害)という言葉を目にした時に、長男に当てはまると感じ、ドクターに相談したことから、長男の告知は差ほど驚かなかった。
逆に、「もっと早く分かっていれば…」と後悔した。
なぜなら私は長男に対して、文字が読めない書けない事を、罵倒し、毎晩夜中まで漢字のテストをさせていたからだ。
彼にとっては、学校に居ても家に居ても苦しかっただろう。ある意味、それは虐待と変わらない。
謝っても謝っても、その月日は戻らないし、やり直せない。

国語の授業、その他、字を読む時に、担任がサポートをしてくれるようになり、自傷は減った
平成16年
私自身、突発性難聴になる。
入院治療を進められたが、母子家庭ではそれも出来ず、半年以上通院治療するも改善せず。
補聴器を使用するようになる。
ある日の夜、突然テレビの音が歪んで聞こえだし、雑音のようになった。耳を叩いても、指で突いても、頭を振っても変わらず、目が覚めた翌日も前夜と変わっていなかった。
それからどんどん音量は低下し、病院に行ったのは数日後。
後悔先に立たず・・・
この頃の私は、冷静な判断や気持ちが持てていなかった。
世の中全部が敵のように感じ、なぜみんなに批判される?なぜこんなに苦しまなければならない?と思う反面、全て自分のせいだ、私が悪い、と自己否定に陥り、自分を責める。そんな自分が大嫌いだった。
正直、この頃の記憶は断片的なのだが、陸橋の上から下を行き交う車を長い時間見ていたことは記憶に残っている。そんな日々が続いていた。

そして、その後、一つの課題をクリアしなければならなかった。
他県に住む、私の父と母に、息子たちの事を告知すること。
私の耳は、電話が出来なくなった時点で分かってしまう。が、それまで孫たちの事は伏せていた。ショックを受けるのは分かっていたからだ。
次男の奇行は、保育園の頃から父も母も知っていた。「変わった子」として捉えられ、双子であっても、長男とは明らかに違いがあった。
母親としての能力を問われ、叱責された。
離婚したこと、そもそも結婚したことも、快くは思われていなかった。
当然、私にも問題はあり、多々心配をかけてきた。それに正直言えば、もう責められるのは嫌だった。
だから、息子たちの事は黙っていた。
しかし中学へ行けば、支援学級に在籍するようになる、いくら他県でもいい加減分かってしまう。
両親が広島に来た際に、父に手紙を書いて手渡した。
読み終わった父は、「分かった」と。他には何も言わなかったが、目は少し赤かった。
母にはそれから暫くして伝えた。泣き崩れた。
平成17年4月
≪発達障害者支援法が施行され、福祉サービスが受けられるようになる≫

中学校入学 
ドクターや小学校の担任、中学校の支援学級の先生と話し合った結果、越境通学を希望し、学区外の中学校へ入学。電車通学を開始する。
写真を使ってルートのカードを作成し、入学まで私も一緒に毎日練習をした。
長男)対人恐怖症が再発症 初対面や慣れない処では、極度の緊張から倒れるようになる。
支援学級ではリーダーシップをとれるのだが、交流クラスに行くと、緊張して発作を起こすようになる。
次男)この頃から歩き方がチョコチョコと歩幅狭く歩くようになる。
つま先歩きをするようになり、手をひらひらさせていた。私から見ればとてもかわいいのだが、他の人から見ると、不可解に見え始めた年齢かもしれない。
平成17年5月
≪事件簿≫
通学に慣れ始めたころ、電車の中で次男が見知らぬ人から暴行される。鉄道警察とJRへ行く。
掛けていたメガネが目じりに突き刺さる。恐怖心から、左半分顔面神経麻痺になり、動かなくなる。回復するまで、半年かかる。
終始目撃していた長男が、勇気を振り絞って学校へ連絡してくれ、緊急事態を知った学校から私にメール連絡が入った。
事件が起きた時、周りの人たちや、JRの職員までも気にかけてくれなかったのだろうか。
広島駅に到着した時に起きた。通勤ラッシュとは言え、次男はパニックになり泣き叫んで目立ったはずなのに。
そして、すぐに電話で息子たちの声が聴けない事・聴いてあげられない事が一番つらく、申し訳なかった。
平成17年7月
電車事件に追い打ちをかけるように、台風の影響でパニックになり、自傷が始まる。(現在も台風はフラッシュバックを起こす) 手を使うことを極度に嫌がりはじめ、一日中手を洗い続けるようになる。
《強迫性障害と診断》
パニック時に爪を損傷してしまったことから始まり、指の第一関節辺りまで皮膚を剥いてしまう。
汚れていると思うようで、5分おきに手を洗うこともあった。
洗えない場所では、消毒液を常につける。手が使えなくなり、手袋をしたまま、手術前の外科医のように腕を上にあげて過ごしていた。
平成18年
長男)解離性の発作が頻繁に起こるようになる。
《解離性障害と診断》
緊張や怒りと後悔のように、相反する感情が同時に起きると、意識を失って倒れるようになった。
次男)学校・ショートステイ先など家以外のところに行くと、逃走し、行方不明になってしまう。
幾度か捜索願を出す。
音・声・蛍光灯の光から逃れたかったと私が気付いたのは、数年経ってからだった。
平成19年
中学3年生
卒業後の進路について、学校と何度も話し合い。
次男は特別支援学校高等部と決めていたので、入学に向けての面接などを受けていった。
長男はLDによる文字の読み書きは難しかったが、理数系は好んで取り組んでいたことから、支援校とは別の道を考える。
この頃からか… 長男、次男の事を知ろうと色々やっていた事が、学生時代に児童心理学を学んだこともあってか、私の中で、知れば知るほど面白い、と感じるようになった。それまで学校と病院以外は家にこもっていた私だったが、息子たちとの日々をブログに書くようになり、HPを作成し、外部とのコミュニケーションを自分から取るようになった。
当時まだ補聴器もあまり合っておらず、喋ることに抵抗があったが、ネット上だと耳の不自由さは問題なく会話できることに喜びを感じた。
それから人の口の動きや、自分の声の出し方など、色々な訓練をすると同時に、学生時代から遠ざかっていた心理学を、改めて勉強し直した。
こう思った事で、自分を責める気持ちはなくなった。
気が付けば、息子たちが私の生き甲斐になっていた。希望と目標になった。
この時初めて「ごめんなさい」の口癖を、「ありがとう」に変えようと思えた。
中学校卒業
平成20年
高校へ進学により、双子が初めて別々の道へ進む
長男)通信制県立西高校へ
次男)特別支援学校高等部へ
長男の進路先については、中学の先生から反対された。
今までに事例がなく、自発性を必要とする通信制は、長男にとって負担大きいのでは?と懸念された。しかし、まずはやってみなければ、分からない。それになにより長男自身が望んだのが大きい。
何の根拠も無かったのだが、この時、私は長男には出来る、という思いがあった。事例がなければ、私たち親子が事例を作れば良い。
長男の入学式で担任に事情を説明し、私も授業に参加させてもらう許可をもらう。私がノートを取り、長男が聞く。
初めての単位を取るところまで親子プレーを続けた。
思わぬところで学生気分を味わえることになり、息子と一緒の授業は、心から楽しかった。

次男はある程度守られた場所への進学だったので、安心感は多少なりあった。が、逃走・万引きの繰り返しは相変わらずだった。
平成21年2月
現在のロング株式会社となる前身スタート
平成21年10月
ロング株式会社設立
設立時は取締役として就任
社会に背を向けてから、7年近く経過していた。
私は世の中の人より7年も遅れている…、追いつくには人の何倍も走らなければならない、と必死だった。
平成22年12月
代表取締役に就任

≪事件簿≫
この頃、兄弟間の仲が難しく、2人で留守番をしている時、喧嘩をしては長男が解離発作で意識障害、次男がパニックを同時に起こし、部屋の壁は穴だらけ、二人とも血まみれのケガをしていることが増える。
そのため、2人を離すようにした。
自宅で仕事をしていた頃と違い、時間の融通が利かなくなったことで、息子たちに負担をかけていたのかもしれない。 この時、初めて 県外にいる私の両親に頼った。
長男を1年間、両親に預け、スクーリングがある日だけ広島に戻る、という生活スタイルに変わった。
平成23年3月
次男)支援学校卒業
在学中の就職面談にて担当から、現状は行き場が無い、と言われた。出来る部分と出来ない部分のIQの差が激しく、話す言葉も理論的に話すため、作業所も一般就労も受け入れが難しいタイプの子だった。
この時「この子は社会では居場所がないんだ」と感じた。
私が社会に向けてやろうとしていることと、現実の社会の現状に温度差を感じ、苦悩した。
飲食店に就職するも、
先天性の身体の障害が判明し、体調不良となる。
平成23年4月
就労が難しいと判断し、自宅療養となった。
平成24年
長男)広島へ
スクーリングのない日は、知り合いのブリーダーのお手伝いをしていたのだが、3年生あたりから少しやる気を無くし、学校へ行きたがらなくなったと同時に、私の母に対して暴言を吐くようになった。
私の両親は1年足らずで根を上げた。そして帰広。
学校は、卒業まで続ける事を条件とし、別の通信制の高校へ転校させた。
アパートへ引っ越し
生活訓練としてデイケアの利用を開始するが、すぐに利用を辞めてしまう、学校は続け、どうにか無事に卒業した。
平成24年3月
≪事件簿≫
長男)傷害事件を数回起こし、何度か警察へ。
アルバイトも何度かチャレンジするも、人の目が気になり、挫折。
当時、長男は次男と一緒の生活を頑なに拒んだ。そして、彼は自立を強く希望した。
それで私は、福祉サービスが利用できる所を探した。
今思えば、一種の反抗期も重なっていたのかもしれないが、私の元にいる次男に対し、嫉妬していた。
それまで、3人でどんな時も一緒に歩んできたのに、自分だけ疎外されたように感じていたのかもしれない。
「俺は誰かの手を借りなくても、自分で何でも出来ると思っていた。けど、やっぱり出来なかった…あの時、ほんとは寂しかったんだ…」と本音を言ってくれたのは、それから数年後。22歳を越えた長男の口から初めて聞くことが出来たのだった。
次男)自宅に来客があると怖がるようになり、初めて自宅から逃走。
ショート先からも逃走を繰り返し、捜索願も数回出す。
双子だからこそか。
長男が不安定な時は、次男も別の場所に居ながら不安定になる傾向が分かった。
そういえば、小学校の時から、長男がケガをして帰れば、別の場所で遊んでいた次男も長男と同じところをケガして帰ってきたことが何度かある。
平成26年頃~
それから数年。 21歳になったころから…2人に変化が見られるようになる。
彼らの「やりたいこと」「得意なこと」「やれること」が明確になり、それぞれの道を歩み始めた。
今は長男も落着き、「あの頃、俺はどうかしてた」と自分で振り返っては反省の言葉をよく口にする。そして次男を日々気にかけてくれている。 次男も、天候に伴う自傷はあるが、万引きはしなくなった。
実のところ、彼の万引き行為は、“試食・装飾品・商品”の区別が出来なかったため、惣菜物を試食品と捉えていたり、飾ってあるものと〈ご自由にお持ち帰りください〉の違いも判らなかった。
おまけに商品の陳列が少しズレていると、それをキレイに全て並べようと商品を触りまくっていたので、お店側からすると「迷惑なお客様」だったのだ。
今では、「買うものしか触らない」ようになっている。 そして、逃走も「今から逃走します」と、事前に言うようになってきた。
確かに、言ってからだと「逃走」にはならない。ただのお出かけだ。
彼らは、そんな毎日を過ごしている。

まだまだこの先、2人がどうなっていくか、過ごしていくか。 未知ではあるが、どんなことでも受け止める思いを、私は忘れてはいけない。
何歳になろうとも親と子は、一蓮托生なのだから。